東日本大震災から5年となる
今年の3月11日。
私は仙台にいました。
海上自衛隊の掃海母艦「ぶんご」が
5年目にして初めて洋上慰霊を行ない、
その取材をしていたからです。
その日の夜、当時の指揮官クラスの人々が
仙台で食事会をするというので、
ボイスレコーダー片手に参入、
このときの内容を座談会としてまとめました。
今発売中の『新潮45』5月号に掲載されています。
『海上自衛隊指揮官たちが初めて明かす
「東日本大震災の現場」』
あまりメディアに取り上げられることのなかった
海上自衛官たちが、どんな思いで任務に当たっていたのか、
どんな苦労があったのか、
今だから言える裏話、振り返ってみて思うこと・・・等々。
このとき、私は「第二の津波」という言葉を聞きました。
第一の津波はもちろん沿岸部をえぐり取った「津波」です。
ならば第二の津波とは何か。
それは「支援物資」です。
あのとき、全国から支援物資が集まりました。
しかし自治体が機能していないから、避難先まで行き届かない。
そもそも仕分けする人手も足りない。
すると集積所で何をしなければならないか。
まず山と積まれた物資のリストアップなのだそうです。
その間、必要なものを必要なときに取り出せない、というのです。
熊本でも同じことが起きているのでは?
避難場所に生理用品が届かないのは、
社会がタブー視しているからでもなく、
生理用品を送る人がいないからでもなく、
それをさばくだけの機能が現地では失われているからです。
私たちが遠くから「あれ送れ」「これ送れ」と言って
実際に手配したとしても、そこから自動的に
避難所に物資が届くわけではありません。
当たり前の話ですが、誰かが届けているわけです。
道路が寸断されていて、届きますか。
集積所がパンク状態で、届きますか。
ネットの情報だけに頼って、輸送や分配の
プロセスに想像がいたらないのだとしたら、
それこそ私たちは「第二の津波」の加担者になりかねません。
ぜひとも『新潮45』の座談会をご覧ください。
そこには、東北の人はがんばった、自衛隊ががんばった、
という美談だけでは終わらない、被災現場や救難活動の
実態が語られています。
「生理用品を送れ!」と言っているだけでは済まされない、
別次元の課題もわんさかあるのです。